答えのないゲームを楽しめるか
僕は昔からゲームが好きな部類の人間である。
小学生の時にちょうどPS2とラチェットアンドクランクがセットで売られていて、それを買ってひたすらやっていた記憶がある。
そこからコンシューマー向けのゲームは恐らくだいたいやったし、何故か家には他にゲームが好きな人間がいなかったのに、ゲーム&ウォッチも初代ゲームボーイもスーパーファミコンもPCエンジンコアグラフィックスもセガサターンも、もちろんプレイステーションも存在していた。
家では1日1時間だけしかゲームができないという独自ルールがあったので、小学生の僕はできるだけ、調理に時間がかかりそうな夕食のオーダーや、「おまかせで!」という世の中のお母さんが忌み嫌うオーダーで、なんとか2時間以上家に帰ってこないように図っていた。
夕食を食べ終わると、1階に降りてPCエンジンコアグラフィックスで桃鉄やボンバーマンやストファイを楽しみ、セガサターンでソニックジャムやバーチャルファイター2などをプレイしていた。
ちなみに、ダントツで好きだったタイトルが、電脳戦機バーチャロン フォー セガネットです。今やっても多分全然楽しい。
ゲームのソフトがハードが変わっても、ソフトはそれほど変化しない。
PSのソフトもセガサターンの時に発売されていたソフトの内容をアップデートしたり、
仕様改善を行って発売されているので、タイトル一覧でみると変わっていないものもちらほら。
その後カードゲームにまんまとハマり、ゲームが生活に欠かせないような生活になっていたのだが、ゲームは、人間がルールを作り、そのルールの元、皆で遊ぶ競技である。
競技である以上、底には勝敗が必ず存在する。この特性はスポーツと似ている。
広義にはスポーツは身体の活動を伴うゲームであるとも言える。e-sportsの目覚ましい発展がそれを物語っている。
では、「人の一生」はどうだろう。
軽度のゲームオーバーは許されるが、崖から落ちても、コンテニューボタンは見つからない。異常なジャンプ力もないし、ガンダムに乗れたとしても、僕はアムロ・レイにはなれない。
そして何より、「ルール」が人生には存在しない。それは再現性がないことを意味する。解釈の余地が大きいのが人生であり、ゲームにはそれほど解釈の余地はない(最近が余白の多い、ユーザーに選択肢の多いゲームも増えてきたけど)。
そんな答えのないゲームを認識するのが、僕らは遅すぎた。
僕はそのことに憤りさえ覚えている。
なぜ、大人は誰も僕のゲームのルールを教えてくれなかったの?
それは恐らく彼らが人生というゲームをプレイしている感覚がなかったのか、ルールを自分たちで作り上げて、コンフォートゾーンに居座り続けようとしたからである。
ルールのないゲームはともすれば、ものすごいストレスだ。
僕にとってもソフトのジャンルではRPGが一番面白くて、一番疲れるジャンルだ。
人生はポーズ画面にすることもできないし、勝手にゲームオーバーがくる時限爆弾だ。
「僕」というゲームをどこかにセーブしておかないと、簡単に廃盤になるそれに加え、このゲームにはバグも沢山ある。
僕らは今ゲームをプレイしている。
僕のゲームを他人に邪魔させるな。一番おもしろい瞬間を誰かに横取りさせるな。
自分の人生を、その瞬間を死ぬほど熱中して楽しめ。そして、最高の作品として後世に語り継がれろ。
ここまでゲームに夢中にさせてくれたのが、母親の1日1時間のルールだったとおもうので、もしかしたら人生にも「ルール」はあった方がいいかも(あれ、、)